2015年05月
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かつてホームドラマで、「今日はすき焼きだから早く帰って来なさいよ」と母親が子供に言うシーンがあった。関西人からすると、「?」が頭に浮かぶフレーズで、なぜすき焼きをありがたいもののように言うのかわからなかったのだ。関西では牛肉は日常のもので、ごちそう的感覚が薄い。だからそれがメインの具材となるすき焼きとて特別視しない。それに比べて、関東はごちそうで、昔はかなり特別視していたもののようだ。今回は、そんなすき焼きの話をしたい。なぜ煮込んで作るのに“焼き”のフレーズがついているのか、わかってもらえると思う。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
すき焼きって、煮物なの?
焼き物なの?それとも鍋料理なの?

すき焼きのルーツは、文明開化の産物にあり!

すき焼き

季節的に合わないのだが、今回はすき焼きについて書くことにした。「名料理、かく語りき」で「むろ多」に取材した折り、女将さんがハラール和食発表会で出すすき焼きを調理してくれ、それが美味しかったのと、取材に同行した新古敏朗さんから「一度すき焼きについて蘊蓄を聞かせてほしい」と頼まれていたこともあって、季節はずれの鍋ネタになってしまった。
すき焼きは、煮物か、焼き物かについては昔から物議を醸している。それは“焼き”と付いているのに鍋の中でグツグツと煮込む様を見て、誰もがネーミングに不思議さを覚えるからに違いない。

すき焼き すき焼きの“すき”とは、「鋤」の字を書く。そう、農具などに用いられる鋤のことだ。江戸時代は、農夫が火に鋤を立て、鉄部分に魚など置き、鉄板代わりにして焼いて食べていた。町中ではなく、田畑、いや山間のことなので時折り、野鳥などもそうして喰っていたのだろう。それが語源になっている。一方、すき焼きのルーツを調べると農夫たちのそれではなく、幕末から流行り始めた牛鍋に行きつく。江戸時代は肉食が禁じられていた。それが幕末に外国との交易が始まり、異国文化が入って来ると、牛肉を食べる習慣もでき始め、それを出す店も出てきた。鹿や猪とともに牛肉を提供し始めた「ももんじ」や、横浜入船町にあった「伊勢熊」がその代表例で、後者は居酒屋だった一軒の店を二つに割り、片方で牛鍋を出していたらしい。このように幕末には、すでに牛鍋を出す店が出て来ているが、流行し出すのは明治期に入ってからで、明治天皇が牛肉を食べたことにより、一気に広まって行ったようだ。

すき焼き

そもそも牛鍋とは、味噌で牛肉を煮込んだもので、醤油と砂糖で作る今のすき焼きとは別物になる。当時の牛肉は、農耕用の牛を捌いたものなので硬くて、獣臭ささがあった。それをごまかすために味噌を使ったと思われる。今でも雑食である猪の肉を味噌で煮るぼたん鍋があるが、味噌を用いるには、それと同じ理由であったと思ってほしい。この時分は、肉を薄く切る考えもなかっただろうからブツ切り風にして供していたと思われる。

関東大震災が原因で、今のすき焼きが生まれた

すき焼き

では、なぜ味噌煮の牛鍋がすき焼きになったかといえば、東西の食文化の違いが関係している。関東で流行した牛鍋は関西にも流れて来たのであろうが、関西人はそれよりも昔からの鋤焼きのスタイルを好み、鉄鍋に牛肉を載せ、醤油と砂糖で調味しながら焼いて食べるスタイルを選択した。これについては割下が一般化した今でも東西で作り方が異なっており、関西の料理屋では割下を使わず、焼いてすき焼きを作っているのでわかってもらえるはずだ。

すき焼き 鋤焼きを語源とする料理と、文明開化により広まった牛鍋_、この二つの料理が西と東で食され、次第に肉食が普及して行く。その流れを壊したのが関東大震災だ。大正12年(1923)9月1日11時58分に起こったそれは、東京の街を壊滅させ、炎に包んでしまう。当然、店々は焼きつくされてしまい、牛鍋屋とてなくなってしまった。職を失った料理人は、一斉に働き口を求めて西下。関西や北陸の料理屋や旅館で働き始めた。そんな彼らが後に関東に持ち帰ったのが関西風の日本料理。かつての都があった京や瀬戸内を間近に控えた大阪は、殊、調理に関しては優れており、その技術を持ち帰ったために今でも関西風味が日本料理の主流になっている。
働き口を西に求めた料理人とは別に、被害のない関西からは「今ぞ」とばかりに東京へ料理屋が進出している。牛鍋屋が潰れた後、関西のすき焼きが入り、この二つの料理がなぜかしら、うまい具合いに混ざり始める。それでも牛鍋屋の名残か、醤油と砂糖で焼くスタイルは定着せずに割下を使って煮る形が選ばれた。但し、味噌ではなく、醤油ベースの割下に変わっている。そして煮込んでいるのに、なぜか焼くという「すき焼き」の名称を使うようになった。いわば作り方は牛鍋のアレンジ版で、ネーミングは鋤で焼くという名残を選んだわけだ。今でも具材のことをザクと呼ぶが、これとて牛鍋の名残で、ネギをザクザク切ったことによるもの。

すき焼き

以前、このコーナーで、北大路魯山人のすき焼きを書いたが、氏はどうやら“焼き”の意味に重きを置いていたと思われ、鉄鍋で牛肉を焼きながら食している。但し、魯山人は砂糖は用いず醤油のみの味付け。後年は少々のみりんを用いたそうだが、牛肉の甘みを味わうべきものとばかりに砂糖使用を否定している。
さて、このところすき焼きに異変が起きているのをご存知だろうか。それは関西風の作り方が鳴りを潜め、割下を使う関東風が一般的になってしまったことだ。この風潮は料理屋が自店の味を割下で表現しようとしていることもあるし、関西風だと給仕係が一人付かねばならないから邪魔臭いのもある。さらに最大の理由は調味料メーカーの事情にある。醤油だけでは事足らず、すき焼きの素的な調味料を各社がこぞって販売し出したからだ。すき焼きは割下を使う方が確かに便利で、味もぶれにくい。だからといって東に迎合する必要があるのだろうか。せっかく東と西の食文化があるのだから、関西人は昔からの“焼く”スタイルを選びたいと私は考えるのだが、さて皆さんはこの点をどう思うのだろうか?

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい