2014年08月
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日本料理界の重鎮・佐川進先生のことを「名料理、かく語りき」で書いたので、このコーナーも日本料理のことを記しておく。食の世界では東西比較が昔から語られているが、常にその発展型を成すのが大都市、つまり江戸であり、東京なのだ。それを大阪人は、東京憎しで、自分たちの町を‟喰い倒れ”と称しているにすぎない。ただ東京は地方の人が多い分、旨いものに接する機会が少なかったのか、個人的意見としてだが、食べる人のレベルは関西の方が高いように思う。そして口うるさい彼らが旨くないものを罵倒するからこそ、関西の料理人のレベルが高くなるのである。今回はそんな含みも込めて江戸期の外食店の話を書いてみたい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
昔から日本料理は、西に基礎があり、
東にその発展型がある

懐石と会席は意味が違う

神戸産の野菜

日本料理の起源は、いつなのか?こう書くと、我々は日本人なのだから祖先がこの島国に存在した時ではないかとの意見が出てくる。それはそうなのだが、今のような形を成し出したのは室町時代あたりからとわかっている。平安時代の公家宅では、中央に高盛飯を置き、その周りに菜を入れた皿を並べるのが常だった。やがてそれが飯と汁・菜という形に変化し、配膳するようになる。この膳式が確立されたのが室町時代なのだ。江戸時代に入ると、この客膳料理が本膳という名に変わる。そしてそれが懐石と会席へと変貌するのである。

神戸産の野菜 よく料理屋で看板に‟懐石料理”と記している所があるが、あれは間違っていると思ってもらえばいい。宴席料理や高級料理を指すのであれば、‟会席”と記すのが正しいからだ。そもそも懐石とは、僧侶が空腹を我慢するところから名づけられた。懐の石とは、懐炉の代用で、修行僧が空腹を堪える目的で懐に温石(温かい石)を忍ばせたことに始まる。つまり懐石料理は、その例が転じたもので、ごく軽い一汁三菜を指すと思ってもらえばいい。
これに対して会席料理とは、酒を飲むためのおかず、つまり酒菜である。この会席には二つのパターンがあり、ひとつは宴会料理で、もうひとつは喰い切り料理。前者は酒菜の膳の上に沢山並べて供するもので、後者は一品ずつ酒菜を運んでくる。いわば、今でいう旅館料理やパーティー料理のスタイルか、割烹料理のスタイルに分かれるということだ。

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外食店が出てくる前は、大名などは自分の屋敷に料理人を置き、我が家で饗応していた。それが江戸時代の外食店の発展とともに徐々に変わって行ったのである。江戸時代で一世風靡したのは、浅草・金竜山の門前にできた奈良茶飯屋。これは上方で評判を取っていた茶飯の出し方に倣ったもので、今でいう一膳飯屋。茶飯に豆腐汁と煮しめを添えて出しており、これが外商店のルーツとも呼ばれている。

奈良茶飯が評判となり、外食店ブームが訪れる

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歴史が動く時は、大きな出来事(事件)が起こり、それがもとで町は変わっていく。今でも大地震や大火事が起きれば、それまでの建物はなくなり、そこに新たに施設が建つようにだ。外食店誕生のきっかけとなったのは、1657年(明暦3年)に起きた明暦の大火であろう。この火事は、振袖火事とも呼ばれ、いわくつきのものであった。まず浅草の大増屋十右衛門の娘・きくが恋人と同じ柄の振袖を作ったことから話が始まる。この娘は不幸にも17歳で死んでしまい、この時の振袖は本郷丸山にあった本妙寺に収められた。その後、この着物を麹屋吉兵衛の娘・花が買ったのだが、彼女も病死し、その柩とともに本妙寺へ振袖が戻っている。麻布の質屋だった伊勢屋五兵衛の娘・たつがこれをまた古着商から買ったのであるが、彼女も病死してしまい、三度(みたび)本妙寺へ収められている。寺では、この振袖が不吉だと考え、焼こうとした。だが、その火が偶然にも本堂に焼き移り、やがて大火となって江戸の町を焼いてしまったのだ。

神戸産の野菜 こうして焼け野原になったところに上方からの飲食スタイルが入って来る。元来、奈良茶飯は、東大寺や興福寺からで、それが上方で評判になり、江戸まで伝播していったもの。それまで江戸の外食といえば、屋台が当り前で、下町の人達は、チープな屋台のそばや天ぷらで腹を満たしていた。それが室内で食べる一膳飯屋ができたのだから利用しない手はないと、ハレの日には好んで訪れていたそうだ。現に大火から30年ほどたった頃に出版された「西鶴置きみやげ」には、「金竜山の茶屋に一人五分ずつの奈良茶飯を仕出しけるに、器のきれいさ色々調へ(整え)、さりとて末々(下々)の者の勝手能(よ)きことなり。なかなか上方にもかかる自由なし」と書かれている。当時はこの茶飯屋から隅田川が望めたらしい。川の流れを見ながら奈良茶飯を喰うのがひとつの流行となり、それが外食店が続々とできるきっかけになったと思われる。

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1700年代に入ると、江戸ではかなり外食が盛んになっており、その盛況ぶりが太田南畝(蜀山人)の「一話一話」にも記されている。「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずという事なし」、つまり江戸の町を五歩行けば小さな店があり、十歩歩ければ大きな店に出会う。これらは全て飲食店であるということだ。大阪は喰い倒れの町といわれているようだが、この時代ではそうではなく、むしろ江戸の方が喰い倒れだったことがわかっている。それを西沢一鳳は「皇都午睡(みやこのひるね)」で、町の半分は飲食店で、京・大坂と比較しても江戸ほど何でも食べられるところはない。これは唐土(中国)にもないと思われると驚いている。こうして考えると、日本料理の基礎は、関西だが、それを発展させたのは江戸ということになる。今も昔もその図式は変わっていないということだ。 (文/曽我和弘)

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