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京都の神護寺と湯浅氏  7

2010年7月6日

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第六章


京都の神護寺と湯浅氏



湯浅氏の祖といわれる宗重と京都高雄の神護寺とは誠に縁が深く、宗重を仏門に導いたのも、この寺の文覚で、仁安三年(1168)の頃といわれ「湯浅入道念専」という法名

を授ける。



 文覚と宗重の親密な間柄は、宗重の第四子上覚を文覚に預け、出家させたことでも察せられる。



 源頼朝はこの関係を利用して、のち平家有力武士団の頭領であった宗重を味方に引入れ、安堵状を与える。

この仲介は文覚であったといわれる。



 文覚は、京都高雄の神護寺復興に尽した僧である。この寺は平安初期弘法大師によって束寺、高野山とともに建立された大寺院であったが、三百年後には廃寺同様になっていた。



 この寺の再興を発願したのが文覚である。文覚はもと遠藤盛遠という暴れん坊的な院を護る武士であったが、十八歳で出家、懸命に同寺復旧に取組むが進展せず、意を決して後

白河法皇に勧進するも許可が出ず、憤激の余り雑言を吐き、捕らえられ伊豆に流罪となる。伊豆に向う三十日間、彼は断食行を続け決死の覚悟であったといわれ、上覚も同行する。



 伊豆で、先に配流されていた源頼朝と相識り、源氏の再興と挙兵をすすめ、二人の間に固い絆が生まれる。



 配流五年の後、文覚は許されて京に帰り、その後、法皇の御裁許を得て寺の再興にかかる。



 この神護寺復興に欠くことのできない人物が、湯浅氏出身の上覚房行慈であった。



 彼は終生文覚を師と仰ぎ行動を共にした。師の理想とする寺院建立を是非実現させようと力説している。

和歌に対する造詣も深く、中世初頭における有名な歌論『和歌色葉』を著している。後に両親を亡くした甥の明恵を引取り、名僧に育てる。



 この寺再興には法皇や源頼朝が荘園を寄進し、宗重も大量の木材や資材を提供している。



 上覚も直接紀州に下向し、有田や紀北の柚人を励まして木材を切り出し、筏や船で京に輸送させている。



文覚没後、上覚、明恵と受け継がれた神護寺復興の事業は、嘉禄二年(1226)勅使を迎えて落慶供養を執行し、ここに文覚発願後五十年の歳月を経て完成する。上覚は、こ

の盛儀を見届けた半年後、八十歳で生涯を閉じる。



 同寺落成の陰には、宗重を始め湯浅一族の並々ならぬ尽力があり、それとともに、既に京都でも大きな勢力を保持していたことを窺わせる。



神護寺復興を生涯の使命とした文覚・上覚の没後、明恵は神護寺の落慶なった新堂に、師の文覚と上覚の遺影を安置し、遺徳を讃えたのであった。



 それとともに、明恵は三十四歳の建永元年(1206)後鳥羽上皇より栂尾の地を賜り『日出先照高山之寺』の勅願も頂いた。ここで明恵はひたすら浄化無私にして無我の行者

としての生涯を貫いた。

 その厳しい修行と生き方に、上は朝廷より下は庶民に至るまで多くの人々の尊敬を集めた。



 藤原定家の日記『明月記』(国宝)に、高山寺での明恵説法の日は「朝野の人々で溢れ、堂に入り切れない程である」と記されている。



 鎌倉幕府の執権北条泰時も、「われ不肖蒙昧の身にありながら辞するに理なく、政を務りて天下を治めたるは、一筋に明恵上人の御恩なり」と敬慕している。

                       


 


                                筆者 垣内先生


                                 協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺


         

                                             湯浅氏と湯浅町より


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