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京都と湯浅氏  8

2010年7月6日

湯浅醤油(有) http://www.yuasasyouyu.co.jp

丸新本家   http://www.marushinhonke.com の新古です。





 第七章




京都と湯浅氏





 

 湯浅氏は、神護寺に上覚や明恵を送っただけでなく、京の名刹に一族の子弟を僧として多く送り込んでいる。



 こうして入門した子弟は、湯浅氏の中央での窓口として、宗教や文化面のみならず政治経済等諸方面で、重要な役割を担ったという。



 湯浅氏は源平争乱後の、寺社の復興造営にも関与し、大きな成果をあげた。それとともに貴族や武家の屋敷の復興にも力を尽くし、諸権門と個別に深い絆を結んでいった。



 寺社造営の大事業では神護寺・東寺・静法院・寂楽寺の外、四天王寺や高野山根本大塔など地方にも手を拡げた。



 湯浅氏は平安時代末期より京の中心部四条高倉に邸宅を構えることを許され、その他光堂・押小路堀川にも屋敷が建っていた。堀川は当時、京都を貫流する加茂川とともに水の

豊かな大川で、物資の運送の重要な拠点で、木材流通の中心地でもあった。



 湯浅氏は紀州より搬送の木材を集積する地点をここに定めていた。



 有田川や紀ノ川の上流より筏を組んで木材を運ばせ、それぞれの河口より海上を船で運送したものと考えられる。



 これらを通じて、紀伊水道や大阪湾の海上権を掌握し、時には水軍としての機能も発揮した。その上、重要な港や津・河川、土地の管理権や警察権を掌握し、次第に社会的に、

それが承認されていったといわれる。



 承久の乱(一二二一)後、幕府は京都の政務や治安維持、公家との交渉に当る六波羅探題を強力にし、その実務を司る役として六波羅両使という役を置いたが、その任務を湯浅

氏が担当することが多かった。



 また湯浅氏は京都に常駐する武者として、京都の治安維持を担い、洛中の辻々に舞火を焚く箸屋の任務も命じられ、紀州より交替兵を送って、その任に当った。このため京の風習や文化が湯浅付近に定着するようになった。








                                筆者 垣内先生


                                 協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺


         

                                             湯浅氏と湯浅町より

私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。

まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。

この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。

何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。

よろしくお願いいたします。                                      新古敏朗

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい