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湯浅城の攻防   10

2010年7月6日

湯浅醤油(有) http://www.yuasasyouyu.co.jp

丸新本家   http://www.marushinhonke.com の新古です。

第九章


湯浅城の攻防


 

 文安四年(1447)の落城で、湯浅党は再起不能となり、全国各地に落ち延びた。


 しかし、それまでこの城で幾多の攻防が繰り広げられた。


 その主なものを列記すると、正平三年(1348)、足利直冬の大軍が湯浅城に攻撃を仕掛けてくる。この時、城兵は変幻自在な戦術を繰り返しながら、一旦日高に退く。


 同十四年、畠山基国の三万騎の襲撃に城兵は湯浅浜より、水軍を仕立て兵庫に難を逃れる。


 天授元年(1375)、今度は山名修理の猛攻に落城、しかし間もなく再起し、同四年、山名・細川連合軍の来襲を受ける。この時、城兵は敵の進む道に伏兵を置き、不意討をかけて敗退させる。


 止むを得ず連合軍は城を包囲し、食糧や水を絶つ持久戦に持ち込む、ところが城兵は密かに深夜に乗じて城外に去り、寄手が城に攻め込んだ時には一兵も残っていなかったと、

『紀伊続風土記』は記す。


 この合戦より72年後の文安四年、湯浅城と城兵は、蝋燭の灯の燃え尽きるように、南朝としての使命を終えたのである。


 中世全国各地で多くの合戦が行われたが、一つの小さな山城でこれ程多くの攻防を繰返したのは珍らしく、日本城郭史上でも稀有のことと

考える。

 今、湯浅城跡の周辺には、当時の城主湯浅九郎、楠木正親・同正友の墓といわれる自然石が残されている。また城跡の北束の小丘の雑木や羊歯の生い茂った斜面に、横穴と縦穴の比較的大きい洞窟が暗い口を開ける。


 昭和29年、湯浅町が同六十年、町文化財審議委員の和田堅一氏らが調査されたが、それによると、横穴の入□は幅1.5m、高さ1mの半月形で、人口から北洞と南洞に別かれ、南洞の奥行11m余、奥には一


 この度、写真撮影のため坂口計夫氏の同行を願って、入口から窺うと、南・北洞とも崩落の土砂で容易に中まで見ることが出来なかった。


 この横穴の10m程上部にある縦穴は、奥に十坪以上の空室があり、天井は二・五米の高さで、支洞が幾つか伸びていると、先の調査が記録する。


 現在、この洞窟は土砂崩落などの危険性があり『立入禁止』の立札が出されている。


 私は少年の頃、この洞窟に入ったが煽幅が蛸集し、不気味で奥まで進めなかった。


 往古、両洞窟は繋がり、さらに支洞が縦横に広がっていたともいわれ、或いは城兵の落ち延びる間道であったり、伏兵の密かに待ち伏せする場所であったかも知れない。謎は色々の想像を呼ぶのである。


 他に湯浅城に関わるものとして、栖原の極楽寺山門は専門家の調査の結果、簡素な四脚門ながら古風な墓股などは中世らしい技法で、史料はないが湯浅城北門の移築とも考えら

れるという。


 なお、文安四年(1447)に湯浅氏は全国各地に四散し、地元湯浅にはその姓を名乗る者は一人もなくなった。(現在湯浅町に存住の湯浅家は中世末、河内より再び湯浅に帰

住した。)


 しかし、中には鎌倉・室町期、その治政・武勇・戦略・築城等に高い評価を受け、各地に招かれ活躍した武将も存在した。


 一例として、室町時代備前国に入った湯浅氏は尾首城(広島県世羅町伊尾)を築き、後に毛利氏塵下に入るが、その城跡と墓地と伝えられるものが現存する。


    

   おわりに


 

湯浅氏・湯浅党については、長い歳月の間に資料も乏しくなり、全国各地に四散した関係で未調査の部分も多く、これからの研究に待つところが多い。



 願わくば、全国各地の湯浅氏の交流を広め、心の繋がりが深められ、輝かしい先祖の活躍や盛衰・消息・資料などを交換し合い、湯浅氏の歴史を解明していくことは、祖先に対する何よりの供養と考える。


                        筆者 垣内先生

                   協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺

                             湯浅氏と湯浅町より                                




私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。

まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。

この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。

何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。

よろしくお願いいたします。        新古敏朗

                 

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい