2021年06月
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 今春、久かたぶりに東映太秦映画村へ行った。中学生の時に行ってから久しく訪れていなかったので何十年ぶりの訪問なのだろうか。同所は時代劇のセット用に造られたのでリアリティがある。吉原しかり、港町風景しかり、宿場町しかりと江戸の風景そのままなのだ。セット風景をカメラにおさめながらふと江戸の食文化について書きたくなった。事務所に帰ると、本棚に筑摩書房から発刊された「すし・天ぷら・蕎麦・うなぎ」(飯野亮一著)なる本があったのでそれを参考にしながらも知っていることを書き連ねたいと思った。現在の日本料理の基は江戸時代にある。調理技術も食文化もしかりで、徳川幕府下で花開いている。江戸に限定すれば、同書と同じように寿司・天ぷら・そば・鰻は、江戸の四大名物といわれ、この時代に流行したものが今に至っているのだ。書くことが一杯あってちょっと尻切れとんぼに終わるかもしれないが、今回は江戸の食について語ってみたい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
寿司・天ぷら・そば・鰻のジャンルは今も首都圏に脱帽。その要因は、すでに江戸時代の食文化にあった

屋台から発展した江戸の四大名物

 和食においてその基礎ができたのが室町時代で、戦国期に欧州とその交易が始まり、その影響も加味しながら江戸時代に料理が花開いていく。料理自体は、都があった京都と、天下の台所と呼ばれた大坂が先進で、それを江戸が追いかける形で進化して来た。和食の基礎を成す昆布だしや鰹だしも上方で生まれているし、この二つの合わせだしとて大坂の永代濱が発祥ではと考えられているのだ。関西人は、今でも味は、関西の方が東京に勝っていると思っているが、それも歴史の流れからそう思われても仕方ないのかもしれない。そんな風潮の中でよくいわれるのが東京に負けているのが四つあるとの話。その四つとは、寿司・天ぷら・そば・鰻なのである。寿司は江戸後期ににぎり寿司が誕生し、それが箱寿司(大阪寿司)を抑えて全国に席巻したことによる。天ぷらは上方にあったつけ揚げがルーツ(江戸には胡麻揚げがあったが、魚肉の揚物は見立たらなかったらしい)で、それが江戸に来て天ぷらに進化した。今でこそ大阪がうどん文化で、東京がそば文化といわれてはいるが、江戸の砂場そばとて大坂のうつぼで発祥していることから考えても上方に流行の元があったと考えてもおかしくない。鰻の蒲焼きもその名称は三つある説のうち蒲穂説が正しいのではといわれている。それからすると“宇治丸かばやき”の文字が文献にあることで、宇治丸=宇治川なのでこれまたルーツは関西と考えてよい。ちなみに文献には、宇治川の鰻を丸ごと串に刺して長いまま焼く姿が蒲の穂によく似ていることから蒲焼きと呼ぶようになったとある。つまり関西が負けているといわれる四分野とてその始まりは関西にあり、それが江戸に行って料理として花開いたと考えても不思議ではないのだ。

 寿司・天ぷら・そば・鰻は、江戸四大名物なのだDSC01848が、これらは全て屋台料理から発している。江戸で飲食店らしきものが誕生したのは、明暦の大火の後。火事で町が焼けて再建する時に上方で流行っていた奈良茶飯屋ができて、そのスタイルが流行した。奈良茶飯とは炊き込みご飯の一種で、これに汁と菜を付けて出す、いわば定食スタイルが一世風靡したのだ。江戸でのそれは浅草金竜山前から始まっており、現在の外食店のルーツのようにいわれている。それまでは屋台が主。まだにぎり寿司はお目見得してなかったが、木曽で生まれたそば切りが慶長の時代(江戸時代初期)には江戸へ流れ、その食文化を徐々に浸透させているし、そばの屋台に続いて蒲焼屋も現れている。天ぷらの屋台は安永年間(1772~81年)には現れたようだ。天ぷらを揚げると、火事の危険性があるために店舗より屋台が合っていたと思われる。

 

 

江戸のそば流行は、醤油が因か?!

 天ぷらはともかくそばや鰻が流行するのは醤油が江戸で使われだしたことが一つの要因ではないかと湯浅醤油の新古敏朗さんが語っていたことがある。醤油は鎌倉時代に紀州湯浅で生まれたとされる。それからしばらく紀州近辺にとどまっていたのだろう。豊臣秀吉が朱印状を与えて醤油を売ることを許可してから一挙に広まっていく。いつしか江戸に醤油が行き、野田や銚子でも造られるようになったために江戸の食文化がパッと花開いた。刺身とて醤油につけて食べるスタイルは江戸期になってからできたものだろう。それまでは酢に漬けて食べていた。生魚を食べる品を造りや刺身と表現しているが、本来は膾(なます)といい。魚肉を使う場合は鱠(なます)なる字にして置き換えてその料理を表現した。酢は太古からあるが、貴人が使う高価なもので、自家製が主。薬効に用いられたのが最初で、調味料使いとして普及するのは、室町時代に商品として確立し、大量生産されるようになってからであろう。

 そばは、奈良時代以前に伝来したといわれるが、平安時代でも農民が飢餓などに備えて栽培する雑穀にすぎなかったようだ。藤原道命(道長の甥)は、山の住人よりそばをふるまわれて、「食膳にもすえかねる料理が出た」とぼやいている。そのくらいの扱いだったのだ。それが室町時代にはそばの実を粉にしてそばがきして食べるスタイルが始まり、やがてそば粉を麺状に加工するそば切りへと発展していく。天正2年(1574年)に「定勝寺文書」にある“そば切り”の文字がそれを示す一番古い文献といわれている。つまり織田信長の時代には木曽の定勝寺でそれが食べられていたのだ。だが、その時代に醤油がそこまで行っていたかは定かではない。徳川三代将軍・家光の時代には木曽はもとより関東の各地でそば切りが売られていた。江戸の町でも売っていたのかはわからないが、四代・徳川家綱の寛文年間(1661~73年)には、江戸にそば切り屋があったと証明されている。この時代にけんどんそばが流行する。けんどんは漢字にすると当初は媗鈍と書いた。吉原で生まれた言葉で、往来の人を呼ぶ声がかまびすしく、局女郎よりはるかにおとって鈍く見えることから媗鈍といったとの説明があり、彼女らのようにそば切りが安値であったことがわかる。そこからけんどんそばといわれるようになってうどん·そば切りを売る店を“見頓(けんどん)屋”と称した。けんどんは、やがて慳貪の字が当てられ、愛想もなくサービスする食べ物の意味で「つっけんどん」なる言葉が使われるようになる。しかし、いつしか“けんどん”は、消えてしまい、出前に使うけんどん箱にその名をとどめるに至った。

 醤油が庶民にまで普及したのは、関西では江戸時代後期、関東では中期以降だといわれている。それまでは膾は酢や煎り酒で食べていた。ちなみに煎り酒とは、日本酒に梅干などを入れて煮詰めたもので室町時代の考案で、江戸時代中期までは垂味噌とともに用いられていたようだ。醤油は湯浅で覚心が中国より金山寺味噌(なめ味噌)の作り方を持ち帰り、その味噌桶にたまった液体を使ったのが始まりとされており、龍野や小豆島でもいつしか醤油製造が行われるようになっている。

 湯浅での醸造が房総半島に伝わり、元和2年(1616)には銚子で、元和10年(1624)には野田で醤油造りが行われるようになったと聞いている。これらの地で造られた醤油は、利根川・江戸川の水運を利用して一大消費地・江戸にもたらされた。これがそばの流行(ブレイク)に結びついたと考えたとておかしくはなかろう。

 ところで私は、時代劇を見て不思議に思うことが多々ある。テレビドラマは、江戸時代のいつを表しているかはわからないが、店にテーブルめいたものがあることだ。この時代、その手のものは庶民の店にはなく、膳で運ばれ、それを床几や畳の上に置いて食べるのがこの時代の絵づらなのだが、きちんとした歴史検証が入っていないからか、なぜか今の居酒屋のように床几にすわり、テーブルめいたものを台にして食べているのだ。その点、映画「みをつくし料理帖」ではきちんと膳で食べるシーンが描かれており、江戸の食事風景が再現されていたように思う。歴史好きの私からすると、食べ物の検証やそれにまつわるエピソードを書くと、頁(スペース)が足らなくなる。江戸の四代名物を挙げながら中途半端になったと思いつつも今日はここらでやめておく。次の機会にその他の江戸の名物について話すこととしよう。

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい