2022年06月
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春は苦みを味わうと言われるほど産物のない季節だ。昔なら冬場は農業をしないから春になると産物がないのもわかる。春に、種を蒔き始めるから収穫はまだ先で、山菜のような苦みのあるものでしか旬を楽しむことができなかったのだ。昨今は、ハウス栽培など農業技術もアップした故に、春でも野菜が味わえる。だが、そのために旬への思いは薄れた。山菜もさることながら春に旬を迎えるのが筍だろう。これはなかなかハウスで栽培ができない代物だ。筍は、ご存知の通り竹の子供である。春に旨い筍が、あの硬く伸びた竹になるなんて想像しにくいが、そうなのだから仕方がない。4月下旬のGW前に泉州・水間の筍をテーマに「さかばやし」にて食事会を催した。その時にしゃべった話を、今月の「食の現場から」で披露しよう。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
旬が薄れつつある現代の食文化で、春の産物の意義を示すのが筍。乙訓産と水間(木積)産の筍は、4~5月に旬を迎える。

筍と旬の字の意外な関係

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4~5月は椎茸が旬を迎えると話したら「エッ!椎茸にも旬があるんですか?」と返された。椎茸といえば、干し椎茸が浮かぶらしく、生でもハウス栽培が盛んなためにそんな返答になるのだろう。天然の椎茸や露地栽培ものは、春と秋が収穫期で、特に4~5月のものがいいとされている。世の中は、全ての種類において農業技術が進化し、ほとんどの産物がハウスで作られている。なので野菜の旬がわかりにくくなるのも当然だ。そんな中でも筍は、唯一といっていいほど旬が明確化された産物ではなかろうか。
まずその字づらである。我々はよく旬というフレーズを口にするが、旬とは一体何日間を示すのだろうか。言葉本来の意味からとらえると、旬は10日間を指す。1カ月を上旬・中旬・下旬と分けるように、10日を表す言葉となっている。中国ではその意味だけだったが、日本では食べ物に見られているように一番良い時期という意味も込められている。日本では、旬には三つあるといわれ、旬の表す中にも走り・盛り・名残に分けて語られるのだ。筍は、成長が速く、10日で竹になるといわれていたので、旬の字に竹冠を付けて「筍」なる字が生まれた。
筍は、その名の通り竹の子である。竹林を散策すると、すっと伸びた竹を見て「美味しそう」と思う人は、ほぼいないであろう。でも竹の始まりが筍であるのは間違いない。筍農家の人達は、筍が地上に顔を出す前に収穫する。筍は収穫期を逃がしてしまうと、エグみが増して硬くなる。皮は成長するにつれ、一枚、また一枚とはがれ、全てが落ちると竹になるそうだ。旬の字の説明では、竹になるのは10日と書いたが、実はもう少しかかって30日で竹に完全になってしまう。ところが、孟宗竹は一日最大で1.2mも伸びた記録があるらしいから、それは10日もかからずして竹に成長したのではなかろうか。

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日本人と筍の関わりは古く、すでに古事記にその記述が見られる。ただ、ここに出て来るのは、真竹のことで我々がよく食す孟宗竹ではない。筍には、孟宗竹・淡竹(はちく)・真竹(またけ)・根曲がり竹・四方竹(しほうちく)・寒山竹(かんざんちく)・緑竹(りょくちく)と種類があるが、我々の思い描く筍は、多分、孟宗竹だろう。孟宗竹は、日本の竹類の中でも最大で、高さが25mにも達するものがある。もともとは中国・江南地方の原産で、勇猛そうな名前が付いているのは、呉の政治家・孟宗にちなんだから。
孟宗は、三国時代の呉の人で、三国志のゲームにも登場する。彼の母が冬に筍を食べたいと言い出し、孟宗は寒中山に分け入り、筍を探した。本来なら生えていないはずなのに彼の孝行ぶりによりそれが見つかった。その話にちなみ、その時の筍を孟宗竹と呼ぶようになったのだとか。古くから中国では食べていたのだろうが、日本に入って来たのは、かなり後で江戸中期に島津吉貴が琉球から持ち帰ったものを磯の別邸で植えたのが始まりらしい。別説では1228年に曹洞宗の道元が宋から持ち帰ったとの説もあるが、日本での広まり方を見ていると、薩摩の21代藩主説の方が信憑性が高いではなかろうか。たとえ道元が持ち帰ったとしても京の一部にすぎず、栽培は広まらなかったろうから、私はあえて島津説を挙げた。筍栽培というと、京都が有名だが、寛政年間に盛んに増殖されており、その後の天保年間に急速に栽培が増加したといわれている。さらに明治に入ってからは、筍栽培の有用性が認められ、京都盆地の西部から北部の丘陵地で筍栽培が増殖された。

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現在、筍の産地を見てみると、①福岡(35%)②鹿児島(19%)③熊本(10%)の順だ。有名な京都は、4位になっており、全体の8%にすぎない。筍は春の産物だが、1月頃から料理屋では使われ出す。早い時期のものは、大半が九州産。やはり気候的な要素が栽培を早めているのだろう。気温が暖かくなり始めると、ようやく関西の筍が出回り出す。京都府下でも筍で有名なのが乙訓(おとくに)地域。長岡京市・向日市・大山崎町に、京都市の南西部がその産地である。これらの地域では京都式軟化栽培法を用いて筍を作っている。この栽培は、敷き藁、敷き草、土入れなどを行う特徴がある。竹林をふかふかの土壌にして日当たりも調整。筍が柔らかく、エグみを抑えて香りがよくなるように育てるという。酸性の粘土質で日当たりにも恵まれなければいい筍は育たない。筍のエグみは、堀った直後から徐々に出始めるので、朝掘りの白筍がいいといわれ、夜が明けぬ頃より掘り出して朝8時には出荷するそうだ。俗に白筍と呼ばれるは、白くてエグみが少なく、柔らかいものを指す。地上に頭を出す前に掘り出したものは、日光に当たっていないのでエグみはほとんどない。しかし、これらの大半は、料理人が買ってしまうので、一般市場にはあまり出回らないのではなかろうか。それほど乙訓産筍はいい。

 

泉州・水間の筍は、大阪の料理屋で珍重される

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食の原稿を書く者は、乙訓産の良さを称えながらも、時折りこんな事を記す。時に大阪の料理屋では、貝塚の木積産が珍重されていると_。木積と書いて「こつみ」と読む。この場所は、水間地域に当たる。南海貝塚駅から水間鉄道が走っており、約30分の道のりで水間観音駅に辿り着く。ここには有名な水間寺がある。聖武天皇が42歳の時に病気にかかり、なかなか治癒しなかったそう。夢のお告げにて「奈良の都より西南の方角に観音菩薩が出現する」と言われた。行墓がそれを探しに行き、像を持ち帰ると、平癒したらしい。そんな話があってこの地に堂宇を建立した。それが水間寺なのだ。筍の里・木積は、水間観音駅から20分ほど歩いた地域だ。葛城山系から大阪湾を臨む勾配地に筍の産地がある。ここも高湿度の赤土の粘土層で、勾配での日当たりも加味していい筍が育つ。筍は、夜間に水をたっぷり含んだ土から水分・養分を吸って育つのだ。筍を採って来てビニール袋に入れておくと、夕方には水に浸るぐらいになっている。JAの人に言わすと、この水が旨みの素で、だから鮮度が大事なのだそう。親竹の水分・養分を素にして日の光を浴びて成長する。ただ、地上に出てしまうとエグみが徐々に出て来る。だから木積でも日が昇らぬうちに掘る。収穫は午前2時から明け方まで。この時間に掘り出すことで瑞々しい筍が収穫できる。水間地区でも乙訓地域と同じようにふかふかの土壌を作って栽培しているそう。冬に敷き藁や置き土をし、一年を通じて除草や追肥を行うという。そして筍を掘り出した穴には、お礼の肥料を入れるのだとか。水間地区では、4月20日ごろに木積の竹林で品評会が開かれ、入賞者は11月の農業祭にて表彰されるという。乙訓産同様、水間産(木積)の筍も料理人に買われて行く。筍農家が少ない分、京都産より手に入りにくいかもしれない。ただ収穫期になると、毎週日曜に木積農の里の朝市で筍が売られているので、一般人はそこで求めるのがいいだろう。
ところで筍は、部位によって旨さも違い、その用い方も料理によって異なって来る。最も上の部分が姫皮と呼ばれ、生を買った人でないとこの部分を食すことはできない。ここは下茹でしてサラダなどに使いたい。その下が穂先で、ややアクが強い。香りが強く柔らかいために吸物にいいとされる。中程は、適度な柔らかさで食感がいいために天ぷらや素揚げに適しており、筍ご飯にも使用される。根元は硬いのだが、味がよく、コリッとした食感が味わえる。中華の炒め物にはこの部位が適している。今回使用した写真は、「さかばやし」(神戸酒心館蔵内の日本料理店)で水間の筍をテーマに食事会を催した時のものである。筍の食事会もフグや蟹同様にいらぬ創作は抜きでいい。天ぷら、焼物、吸物、筍ご飯があれば十分なのだ。この時は、筍の造りが登場していた。生で食せるのだから、木積から朝堀りのいいものが来ていたのは明らかだ。他の野菜もさることながら筍は鮮度が生命。朝掘りの白筍を送ってくれた水間の農家に感謝したい。

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