2012年10月
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「名料理、かく語りき」で神戸・北野町の「ジャンティ・オジェ」を取り上げたので、今回はそれに関連して神戸の西洋料理の系譜について言及しよう。日本の洋食は神戸港開港とともに成長して来たといってもおかしくはない。そしてどの都市よりもそれを受け入れる市民がいたために、他所よりも根づいたのだ。改めて西洋料理と神戸の関係を記してみると、かつての名店「ジャンムーラン」が影響を与えていることがわかる。今回はあえて神戸・西洋料理・音楽と3つのテーマを融合させてみよう。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
神戸は西洋料理と西洋文化を
発信し続けている町である。

神戸洋食は船内厨房経験者が考え出したもの

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 関西で三都というと、京都・大阪・神戸を指す。京都は平安遷都から江戸期幕末まで都が置かれていた地で、かつては日本の中心地でもあった。大阪は太閤秀吉が城を造り、町を興して以来、江戸(東京)に次ぐ日本第二の都市となっている。それに対して神戸の歴史はたかだか百数十年。開港以前は兵庫は少しは栄えた場所だったが、三宮・元町がある今の中心地は一寒村にすぎなかったようだ。幕末に天然の良港として目をつけ、海軍操練所を開いた勝海舟は、下宿していた先の大家に「今は寒村だが、そのうち高値がつくから土地を買っておけ」と言ったそうだ。そのアドバイスに生島某は従い、土地を買い、明治以降に大層儲けたとの話が残っている。そんな神戸も今では三都のひとつ、日本国内で住みたい地№1もしくは№2に輝いている。

神戸は住みやすさもさることながらグルメな地としても全国的にその名が轟いているほどで、殊に西洋料理、中華料理、スイーツの三分野が優れているといわれる。今月の「名料理、かく語りき」でもフレンチの店を紹介したが、西洋料理のメッカともいうべき町は全国どこを探しても神戸・横浜の二都市しか見当たらないだろう。

神戸で西洋料理が普及していった背景には当然のことながら海外交易としての第一港をこの町が有していたことにある。神戸には100カ国以上、約44000もの外国人が住んでいる。欧米諸国はもとより、アジア、中東、アフリカなどまさに人種の坩堝(るつぼ)。その国の数だけ専門料理を出す店があるといっても過言ではない。「名料理、かく語りき」でも書いたが、西洋料理がこの町で普及していくのは大正時代。海外航路整備に伴い、豪華客船が港に着くようになり、船内の厨房で働いていたコックがそこを辞し、陸へ上がって店を持つようになった。彼らが得意としたのがビーフシチューなどの煮込み料理で、やがてそれらが神戸洋食を形成していく。今も町に残る「ハイウェイ」や「伊藤グリル」はその名残り。中でも前者は谷崎潤一郎が命名したと伝えられている。神戸では大正期から昭和初期にかけて洋食でランチを楽しむ女性の姿が見られた。昼食といえば、弁当が当たり前だった他の都市とは対照的な光景だったはずだ。

現代の神戸に目を移すと、やはり北野町にあった「ジャンムーラン」のことを語らねばなるまい。「ジャンムーラン」のオーナーシェフだった美木剛さんは、初めから料理人を志したのではなく、いったん大学に入って学んでから方向転換をし、料理の道へ進んだ。26歳でリヨンに渡り、「トロワグロ」などの有名店で修行を重ねている。そして1977年に神戸・北野町で「ジャンムーラン」を開いたのだ。同店が脚光を浴びたのは、東京と比べると、グランメゾンが関西に少なかったこともあったろう。それと同時に明石で揚がる魚をうまく取り入れ、どこよりもいい素材で料理を作っていったこともひとつの要因かもしれない。その点では「ジャンティ・オジェ」も同じ。まさに「ジャンムーラン」のDNAを引き継いでいる。

「ジャンムーラン」が全国的に名を馳せていたことを示すエピソードがある。1995年1月に起こった阪神淡路大震災では神戸の町は多大な被害にみまわれた。北野町は三宮ほどの被害はなかったが、ライフラインは寸断され、飲食店営業はできない状況に。ましてや高級フレンチを食べる人など皆無だったのである。そんな時、全国各地から美木さんの下(もと)へ声がかかる。被災地では料理ができないのであろうと考えた全国の店々が、彼らを呼んで「ジャンムーラン」の味を楽しむ会を催したのだ。美木さんはスタッフとともにキャラバン隊を組み、全国を巡っている。

そんな美木さんが人気絶頂の中、店を閉じる決意をした。「百ある夢を叶えんがために」と、2001年に自身の店を閉じて第二の人生へと踏み出したのだ。今でもその閉店を惜しむ声がある。そして彼らは口々に発するのだ。「ジャンムーラン」を越えるフランス料理店は日本に存在しないと――。ただ我々は嬉しいことに美木さんの直弟子から「ジャンムーラン」のDNAを体験することができる。明石や淡路島で獲れた魚介類や地元の野菜をふんだんに使って調理する「ジャンティ・オジェ」はその代表格で、フレンチの肝ともいうべきソースを手間暇惜しまず作る鈴木由希雄さんや高柳好徳さんは、その伝統的味わいの伝道師的立場にあるといえよう。

ジャズも実は神戸が発祥

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 神戸の西洋料理について語ったので、ついでにジャズにも言及しておく。ジャズを聴きながら食事や酒を味わうのも、もしかしたら神戸の古くからの姿かもしれないからだ。ジャズが日本にやって来たのは1900年ぐらい。伝説的トランペット奏者のパンク・ジョンソンが貨物船に乗り込み、日本に立ち寄ったといわれている。それが神戸なのか、横浜なのかは定かではないものの、神戸で初のジャズ団ができていることだけは確かだ。1923年に井田一郎が作った「ラフィング・スター・ジャズバンド」がそれ。以来、神戸では日本のジャズ発祥の地として音楽の世界をリードしてきた。今でも秋になると、神戸ジャズストリートなるイベントが行われ、市内各所がジャズライブのステージと化す。多くの市民や音楽関係者を巻き込むこの企画は、今や神戸の町を象徴するイベントとなっている。こういった所にも日本初の事象が多い神戸の底力を見ることができる。

最後に音楽ついでにもうひとつ話を。神戸港が開かれてから外国人居留地(今の旧居留地)で西洋音楽が奏でられるようになった。日本人の音楽家で活動した最初の人物は、奥山朝恭かもしれない。奥山は岡山や大阪で教師になった後、岡山で洋食店を営んだ人物だ。「青葉茂れる桜井の…」という歌詞で知られる唱歌「湊川」の作曲家でもある。この奥山は、海軍軍楽隊に入り、現在の東京芸大の前身ともいうべき音楽取調掛に職を得ているのだが、実は彼ら海軍軍楽隊によってあの軍艦マーチが神戸で初めて披露されている。1900年4月に神戸港で行われた観艦式で富士という旗艦上で演奏されたそうだ。くしくもその年か、もしくはそれに近い年にパンク・ジョンソンが日本に来ている。果たしてそれを神戸だと考えるのは、何事も発祥の地として多くの逸話を持つ神戸市民の勝手(?)な想像なのだろうか…。(文/曽我和弘)

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