2025年06月
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食の流行などを研究していると面白い事が一杯わかって来る。「助六寿司」は歌舞伎由来の発祥だし、握り寿司の流行とて江戸期に半田で誕生した赤酢が背景にあってこそ。その赤酢は着物の色止めに米酢が用いられ、市中で米酢不足に陥っていたために生まれている。とにかく今の日本の食の原形は、江戸時代の事象があってこそ形成されたと言っても過言ではない。NHK大河ドラマ「べらぼう」を観ていたら吉原にまつわる食の流行を書きたくなった。ここでいう吉原とは江戸初期に日本橋近くあった遊里の方ではなく、明歴の大火後に浅草の裏手に移転してできた新しい吉原を指す。現代の台東区千束3~4丁目にあたり、約2万坪もの広さを有していた。この遊里では一日に千両が舞う程の豪華絢爛絵巻が日々繰り広げられ、そこから流行が生まれている。今回は遊里にまつわる食流行に言及したい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
遊里は単に男達の社交場ではなく、流行の発信地でもあった。

「べらぼう」縁の吉原に見る流行とは・・・

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」がなかなか面白い。同作品は、江戸のメディア王と称される蔦屋重三郎を描いたもの。「耕書堂」なる版元を営み、狂歌や浮世絵ブームを世に出し、化政文化の一翼を担った人物として知られている。朋誠堂喜三二や恋川春町、平賀源内といった時の文化人達と交わり、江戸の出版文化を彩ったとされる。浮世絵師の喜多川歌磨や葛飾北斎、謎の絵師・東洲斎写楽を見い出し、「南総里見八犬伝」の作者・曲亭(滝沢)馬琴といったこの時代を彩る文化人が絡んで来るのもドラマの見所の一つである。ちなみに天ぷらの命名者と伝えられる戯作者・山東京伝や、狂歌流行のきっかけを作った文人・狂歌師の大田南畝(蜀山人)は、時折り私のコラム内にもその名が登場する歴史上の人物で、蔦重絡みの文化人といえよう。

蔦屋重三郎は、遊里・吉原で育ち、吉原五十間道の蔦屋次郎兵衛商店を間借りして本屋「耕書堂」を営むようになった。「吉原細見」(吉原遊郭についての案内書。今でいう風俗情報誌のようなもの)を売り出したり、黄表紙本や酒落本を出版したりしている。その後、本屋が立ち並ぶ日本橋へ進出し、油通町に店を構えて、喜多川歌磨をプロモーションして美人錦絵のブームを作ったり、東洲斎写楽を画壇に登場させて役者絵を売り出すに至った。ドラマの前半は吉原が舞台なので遊郭が並んだ大通り・仲の町がよく出て来る。吉原は、四方を堀と塀に囲まれた特殊な町づくりで、大きさとしては2万坪余り。多い時には1万人もの関係者がこの中で暮らしていたという。唯一の門である吉原大門からしか出入りはできない。大門からまっすぐ仲の町が通っており、その右側に江戸一丁目、揚屋町、京町一丁目と続く。その左側には伏見町、江戸二丁目、角町、京町二丁目がある。ドラマによく出て来る九郎助稲荷は京町二丁目の奥、吉原の左側角にあったようだ。吉原は幕府公認の遊郭で、世界でも特殊な例である。現代人には少々わかりづらいが、一日千両が落ちる場所ともいわれたくらい華やいだ。遊女達は廓の中で暮らし、公に娼婦としての商売が許された。ただ単なる売春地域だったかといえばさにあらず、アミューズメント性に富み、ここから多くの流行を作り出した。春の夜桜、玉菊燈籠(盆に店先に燈籠を並べて幻想的な夜の風景を演出)、俄(素人が演じた狂言)は、吉原の三大イベント。そして格の高い遊女が仲の町を練り歩く華やかなパレード“花魁道中”は吉原の華。映画やドラマでも演じられているからご存知の向きも多かろう。髪型や化粧、小物に至るまで江戸のファッションに影響を与え、流行語や遊び、食のスタイルまで吉原でいくつか生まれている。特に日本髪の結い方は、吉原の遊女由来のスタイルが多く、当時の町娘も真似た程である。今でも伝わる島田髷は島田宿(静岡)の遊女が結っていたものだが、勝山髷は吉原の遊女・勝山の髷から流行ったと伝えられている。

 

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会席料理を食べると、時折り“台の物”と書かれた献立表が出て来る。台の物とは、足付きの台に載せた料理の事で、焼物を指す事が多い。七輪で松茸を焼くのも台の物だし、小鍋仕立ても台の物と称す。この台の物とて吉原由来ではないかと私は考える。吉原へは遊郭専門の仕出し屋(台屋)が出入りし、大きな台に料理を載せて運んだ。楼客を喜ばせるべく派手な料理が多かったようで、鯛の姿焼きなどはそれにふさわしい一品だったとか。吉原には鰻屋もあってそこから取り寄せる鰻の蒲焼きは精力剤の如く人気があったようだ。同じような意味あいで流行したものに桜鍋がある。桜鍋とは、馬肉をすき焼きのようにして食す料理。獣肉なので江戸期にはなく、明治期に入ってから生まれたものだ。精力をつける料理だからだろう、当然、色街で流行した。この桜鍋は吉原で誕生しているので東京の郷土料理として認識されている。肉の色が桜色に見える事から馬肉と呼ばずに桜肉と称したのも江戸(東京)らしいの粋のように思える。現在の吉原には明治38年(1905)創業の桜鍋屋「桜なべ中江」がその伝統を守っている。同店については、「食の現場から第121回」に書いているので詳しくはそちらを読まれたし。建物は隣りの天ぷら屋(「土手の伊勢屋」)と並んで古く、聞けば築百年以上は経っているとか。関東大震災後で倒壊してその後、宮大工が建てただけに、今では見られない程立派な建造物である。太平洋戦争時に三軒向こうに焼夷弾が落ちたのだが、運よく不発で、そのために建物は今もそのまま残っている。なので店舗は、登録有形文化財に指定されているそう。私が食べに行った際に店主の中江さんが「昔は遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえや、深夜遊郭帰りの夜食にと賑わっていたようです」と解説してくれた。とにかく客の本論は遊郭にあるので、さっさと味わえるように浅い鍋で馬肉を煮る_、それが吉原発祥の所以でもあるようだ。

吉原といえば江戸期のイメージが強いが、明治期に入っても遊里としての存在は残っていた。映画にもなった「吉原炎上」は、明治44年(1911)4月9日の大火を描いたもので、これにより多くが焼失。再建するものの、関東大震災や東京大空襲でほぼ全焼した。第二次世界大戦後はGHQが公娼廃止を唱えて赤線地帯へ。さらに昭和33年(1958)の売春防止法によってその姿は留めなくなってしまった。今では堀も土手もなく平坦な風俗街に。見返り柳(客が後髪を引かれる思いで柳の場所で振り返ったという話)や大門はその場所を留めるために植えられたり、その跡が残されているが、往時の面影を伝えるものはない。

吉原だけではない、遊里の文化遺産

遊郭建築は、全国のあちらこちらで若干見られる。関西では大和郡山の「川本楼」が有名で、同市内の洞泉寺遊郭でも五軒ほどが残っているようだ。登録有形文化財として一般公開されているのだが、それよりは風情を伝えているのが飛田(大阪)にある「鯛よし百番」であろう。飛田新地は西成区にある色街。今でもその風情を残している。江戸期には、吉原・島原(京)・新町(大坂)が三大遊郭と呼ばれていた。“新地”と称されるのは、その名残りの地域で、色街風情を残しながらも料亭などができて、今でも華やいだ地域として知られる。北新地と呼ばれるのは、曽根崎新地のことで、遊里としてではなく、今では料理屋やクラブ、バーなどが林立し、その趣は変わっている。明治末期に遊里だった曽根崎新地と難波新地が大火災になって焼失してしまった。その代替地として承認されたのが飛田遊郭である。遊郭として、後発組みに当たるためにモダンな建物があったようだ。格子窓をなくしたり、ダンスホールやビリヤード場を設けたりとモダンな雰囲気で売っていた。そんな中にあって唯一昔の風情を残すのが「鯛よし百番」。建物自体は大正末期に建てられ、百年以上経った今でもきれいに残っている。現在は予約制の料理店で普通に食事が楽しめる。建築の専門家によると、大正末期から昭和3年までに建てられたものらしい。当時の経営者は、安土桃山期の書院に倣った座敷や、日光東照宮、北野天満宮を模した部屋など華やかな意匠で各部屋を彩るように大工や絵師を使って造ったようだ。その雰囲気を観賞しながら会席料理やすき焼き、鱧ちりなどが味わえるようになっている。この「鯛よし百番」を借りてコルトレーン研究家の藤岡靖洋さんが毎年「正しいすき焼きの作り方会」を催しているとの話も取材した事があるので、興味がある人は「名料理、かく語りき第128回」を読んでもらうといいだろう。

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さて、さらに遊里と食の関係に話を掘り下げたい。新地と呼ばれる場所は、今の風俗街とはちょっと違って一つの文化性を伝えている。そこには吉原発祥の髷もあるだろうし、台の物や桜鍋の食流行も加わっている。江戸の三大そばといわれるのが、砂場・更科・藪である。このうちの砂場そばは、発祥が江戸ではなく、大坂の新地辺りだというのはご存知だろうか。そもそもそばは野田や銚子で醤油造りが行われる江戸中期以降に江戸市中で流行する。元禄年間までは江戸でそば屋という呼び名ではなく、「うどん そば切り」との看板はあってもあくまでうどんが主流。そばはうどん屋で食べるものとされていた。ところが大坂では、うどんが主といえどもそば専門の店からも早くからあったのだ。「摂津名所図絵 巻之四」に見られる砂場の長寿そばがそれを表している。

絵に描かれているそば屋は、「和泉屋」という。創業したのは中舎仙の俳号を持つ人物で、和泉国熊取郷の出身者だったから「和泉屋」と名乗っていた。昔、この一帯は大坂城域築場の資材置き場で“砂場”と呼ばれていた。砂場は新町の廓の近くにあった地名で、今でも大阪の新町南公園には“ここに砂場ありき”の砂場そば発祥の碑が残されている。なぜ江戸に渡ったかはわからないが、300年前には進出していたと思われる。

その昔、新町には船着場があってその客目当ての遊女家が点在していたようだ。点在していたのを一箇所に集めて新しい町を造ったから“新町”。江戸期の寛永6年(1629)には幕府の公許を受けて新町遊郭が誕生している。新町には「和泉屋」と「津国屋」があったといわれているが、どちらが古いかはわかっていない。「大坂新町細見之図澪標」には、和泉屋太兵衛と津国屋作兵衛の名が記され、店の場所は砂場門際、同角と書かれている。当時は蒸籠で蒸して作っていたそう。つなぎに小麦粉が使われる前は、そばを茹でると麺がちぎれてしまうので蒸していたのだという。もりそばが今でも蒸籠で出されるのはその名残である。ちなみに堺にあるそばの老舗「ちく満」は、320年の歴史(元禄8年創業)があるからだろう、今でも蒸したそばを「せいろそば」として提供している。しかも一枚、二枚ではなく、一斤、1.5斤とメニュー表に書いているのだ。「和泉屋」であれ、「津国屋」であれ、そば専門店として名を馳すのは、遊郭近くの立地たればこそ。遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえは、吉原の桜鍋と同じ意味を成す。そばやうどんのようにさっさと食事ができるのが重要ポイントである。江戸中期以降、江戸市中でそばが流行するが、江戸初期に大坂の新町で人気を博していたのとは、ちょっと意味合いが違うのかもしれない。遊里は何かと合理的な食が持て囃され、色街の華やかさと共に残って来た。そんな事をふと「べらぼう」を観ていて気になったのである。

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