150 2026年04月関西には奄美群島出身者が多い。かつての高度成長期に鉄鋼や造船の仕事を求めて出て来た人が多かったのだろう。だから他地域よりも鶏飯を目にする機会がある。今回取材した北新地の「割烹 大田川」でも珍しく鶏飯に「白搾り」を用いて作っていた。聞けば、店主の大田真樹さんは、鹿児島県徳之島の出身だそう。歴とした会席料理の店にも関わらず、時折り徳之島の郷土料理を挿入して献立を構成するらしい。そもそも大田さんは北新地で人気を誇っていた「粋餐 石和川」で修業をした本格派の和の職人。しかも浦上浩さんの薫陶よろしく育ったなら少々逸脱した会席料理を提供していてもおかしくはない。今回は、北新地の本格割烹で、湯浅醤油・丸新本家の商品を用いた徳之島の郷土料理を食べた話を書く事にする。
割烹 大田川 大田真樹
(「割烹 大田川」店主)
「本来なら塩で調味する鶏飯を
『白搾り』で作ってみました。
この醤油は白醤油タイプで
色もつかず、もしっかりしているので
その役割を充分果たせたと思います」
本格割烹の旗手が誘(いざな)う、ボーダレスな懐石料理

このところ「名料理かく語りき」では、かつて北新地にあって人気を博した「粋餐 石和川」の浦上浩さんの弟子達の足跡を紡いでいる。新宅仁志さん→西林高和さんと来て今回は大田真樹さんの「割烹 大田川」を記事化したい。私がなぜ浦上チルドレンにこだわるかといえば、浦上さんがある時期から日本料理に革命的手法を用いて会席料理の流れを変えたように思えるからだ。浦上さんといえば、神田川俊郎さんの弟子で、米国ボストン日本領事館公邸料理人を務めて帰国後、1986年に北新地にて「粋餐 石和川」を開いた。バブル期頃、北新地に忽然と現われた同割烹は、瞬く間に有名店に伸し上がり、関西のグルメシーンを席巻した。会席料理の中に洋のエッセンスが入った一皿があったり、焼魚にフレンチ風のソースが掛かっていたりと、とにかくユニーク。当時まだランチをやっている店が少なかった北新地で、昼に店を開け出した先駆けのような存在で、永楽町通りの二階にあった「石和川」ではランチを待つ人で行列ができていたと記憶している。とにかく日本料理、会席料理の定義にこだわらず自由闊達(かったつ)に料理を作っていた。それがグルメの舌を魅了したのだ。そんな浦上さんの背中を追いかけて来た料理人だから味が悪かろうはずはなく、「有馬楽膳 桜」の新宅さんに弟子達の店を開いたらこちらも取材を申し込みたくなってしまい、このところの取材になっている。


今回登場願う大田真樹さんも「石和川」出身の料理人で、すでに20年前から「石和川」を離れて独立を果たし、北新地で「割烹 大田川」を営んでいた。もともとは鹿児島県の離島・徳之島の出身で、地元の高校を卒業すると、調理師を志して大阪へ_。中之島辻学園TEC日調で料理を学んでいる。「伝統ある調理師専門学校の辻学園が二年制を導入して私が丁度その二期生に当たります。一年生時に基礎を学び、二年生で専攻する分野を選択するのですが、私はフレンチがやりたかったんです。二年生になる前に先生に相談したら『料理の基本はだしだから、和食をしてから仏料理に行っても遅くない』と諭され、結局ずっとそのまま和食に就く羽目になりましたよ(笑)」と冗談まじりに和の職人になったきっかけを話してくれた。辻学園では一旦「道頓堀今井」へ就職する話がついていたそうだが、これまた先生から「石和川」が人手不足で困っているから卒業後は浦上さんに弟子入りしなさいと諭されたらしい。大田さんが就職した頃は、丁度「石和川」がランチを始めて話題になっていた。その当時は北新地でランチのイメージはなく、夜の繁華街という印象があった。同じ北新地でも「のりたけ」で3000円ぐらいの昼会席のコースはあったものの、普段使いするものではない。そこに「石和川」が千円以下でランチを出したものだから流行るのは当たり前。あまりの流行りようにガードマンが付く程で、職人達は昼休憩もないくらい働いていたようだ。「それは多忙な日々の連続で、日本料理店の仕事ってこんなに勤くのかと思うほど繫昌していましたよ」。それに浦上さんの下での修業はかなり厳しく、音を上げる弟子達も続出したようだ。それでも大田さんは、歯を食いしばって三年間は見習い修行を行っている。ところが大田さんは、一旦料理の道から逸れて親戚の所へ行く。「伯父が建築関係の会社をしていて跡取りがいないからと誘われました。それで五年程働いたのですが、色んな事情も重なり、辞して北新地に舞い戻ったんですよ」と料理人に復帰するきっかけを滔々と話してくれた。北新地へ戻ったといっても料理人に戻るわけでもなく、四年程クラブの黒服としてサービス面の仕事に就いている。「料理人になろうかとも思ったんですが、『石和川』は厳しすぎて戻りたくない。ならば黒服として働き、そのうちに北新地で新天地を探すつもりでいたんです」と大田さん。そんな日々を過ごしていると、誰ともなく大田さんが北新地にいるとの噂が浦上さんの耳に入った。「浦上さんが血相変えて私の所に飛んで来て『何やっているんだ!石和川へ戻って来い!』と言って来たんです。私としては戻りたくなかったんですが、何度も誘われ、仕舞いには引越のお金まで渡されてまさに強制送還(笑)。その四日後には『石和川』の厨房で働いていました」と料理人に戻るきっかけを笑いまじりに話してくれた。




「石和川」には戻ったものの、他の若い職人とは年齢も離れている。しかも大田さんは、「石和川」にいたといっても三年ぐらいで、ブランクもあった。そんな大田さんの立ち位置を察してか、浦上さんは人並みに仕事ができるようにと「日曜日に調理場へ出て来て魚を卸せ」とアドバイスしてくれた。「強制送還されたものの、浦上師は特別扱いをしてくれました」と大田さんは当時の話をしてくれた。仕事には厳しいが、どこか優しくもあり、大田さんが一人前の料理人になるようにとバックアップしてくれたのだという。振り返れば、浦上さんが大田さんにそこまで目をかけていたのは、味付けのセンスが似ているからだと思われる。現に大半の弟子はだしや調味したものを師匠にチェックしてもらうのだが、大田さんには「俺に見せなくてもいいから、そのままやれ」と裏で指示していたそうだ。「大田川」での取材時に浦上流の独特の料理についてのイメージを大田さんに尋ねてみた。すると「私は師匠の料理が大好きです」との返答。洋の調理法を会席料理に導入したりするのは、純然たる会席料理ではないが、大田さんには逆に魅力的に映った。「専門学校時代にフレンチをやりたかったくらいですから洋食の技法も混ざった創作和食はすっと受け入れる事ができましたね。むしろやりたかったくらいです」と言っていた。
「石和川」に戻って六年ぐらい経つとそれなりに技術も身に付く。常連客も可愛いがってくれたし、いつの間にか独立してもやれるのでは…と思うようになる。「その頃は技術の未熟さを差し押いて無謀にも独立したんです」。2006年(平成18年)に北新地で物件を見つけて独立し、「大田川」を開いた。だが、そううまくは事が運ばず、店は閑古鳥が鳴く始末。「あまから手帖」に載ったら大丈夫とばかりにその取材を受けたが、それでも駄目で生活レベルにも支障を来たし、一年間は苦悩の日々を送ったという。転機となったのは、京阪神エルマガジン社が出版する「ミーツ・リージョナル」での掲載。「大人の隠れ家のように書いてくれて、それに載ったら予約の電話が鳴りやまないくらいに。二年間予約が満杯になって驚いたんです」。「大田川」は、カウンター8席、4人収容の座敷が二つという陣容の店である。そんな個室に8人が入ったり、大物政治家が貸切りで使ったりと、オープン時とは天と地の差。盆と正月が一緒に来た程忙しく、オープン時が嘘のように繫昌した。「当時は『神田川』さんの孫弟子が出店したりと話題になった頃で、それにも乗っかり、30代の若きエースと書かれたりもしました。オープン時は会席が6000円~とリーズナブルだったのもあって『ミーツ・リージョナル』を皮切りに全国誌や機内誌と、色んな雑誌に掲載された事も追い風になりました」。「大田川」の料理には、やはり浦上イズムが垣間見られる。純然たる会席というよりは自由な発想が所々に見られ、「石和川」のように焼魚にソースを掛けるのがあれば、ラタトゥユを仕込んで皿に添えたり、時には何にとパスタまで出る始末。「大田川」のHPには“王道を超える感動を”のキャッチコピーと共に数々の料理写真が載っている。そこには「日本料理を基礎とした王道の割烹料理から、少し遊び心を加えたユニークな創作割烹まで。美しい鮮魚の造り、徳之島産の島豚の角煮やクリームコロッケの餡かけなど大田川ならでは逸品が楽しめる」と紹介されている。日替りのアラカルトもあるが、やはりメインは会席コースで、10000~18000円で提供しており、時には徳之島の郷土料理も加わるケースもあるようだ。「例えば一番多い12000円のコースは、9品ぐらい出ます。価格差は品数もありますが、素材の違いもあります。アラカルトは日々の仕入れによって替わりますよ」と教えてくれた。食材は毎朝市場で大田さん自らが選んだ海の幸を。米は伊賀米を使用し、島豚など徳之島産も多用する。いくつかの野菜は農家を営む徳之島の実家からも送られてくるようだ。かつて浦上さんが「石和川」で実践した和の新風を、今は大田さんが「大田川」で起こしている。“北新地の割烹に新たな風を”というフレーズは、師匠譲りで実に清々しい。
和歌山の調味料で徳之島の郷土料理を

さて「名料理かく語りき」では、湯浅醬油・丸新本家の商品を予め店に送っておいて、その特性を見極めた料理人が私だけにスペシャリテを作る。「大田川」にもいくつかの醤油・味噌などが送られていた。それを大田さんが味見をし、それらの良さが出るように作ったのが、①島豚の味噌漬け②島豚の角煮③鶏飯④牡蠣と里芋の赤みそグラタンの四品である。①には「青唐辛子金山寺」が、②には「樽仕込み」、③に「白搾り」、④に「赤だし」味噌が使われている。今回大田さんは、あえて故郷の徳之島色を出して調理したようだ。徳之島から届く島豚が使われているし、奄美群島に伝わる郷土料理・鶏飯が出て来ているのも大田さんらしくて面白い。一品目と二品目に用いられている島豚とは奄美大島に古くからいた在来種。飼育方法や遺伝的背景から肉質的に甘みと旨みが凝縮されている特徴を持っている。脂肪の融点が低く、とろけるような滑らかさがあってジューシー。さっぱりしていてしつこさがない。


大田さんは、そんな故郷の素材と湯浅の金山寺味噌を合わせた。フライパンでスライスした島豚を油抜きして炒め、「青唐辛子金山寺」に漬けて一週間ぐらい寝かす。それぐらい置いておかないと金山寺味噌の味が豚肉に染み込まないらしい。それをエゴマの葉で巻いて食べるのだ。「うちの田舎では豚肉が主。島豚は肉全体に甘みがあって脂っ濃さも余りありません。丁度新商品の『青唐辛子金山寺』が送られて来たんで、それと合わせて酒のアテを作りました」。徳之島では麦味噌に漬けて作るのが多いそうで、時にはずっと漬けておく家もあるらしいが、漬けすぎると硬くなるので「大田川」では一週間程で引きあげる。徳之島出身の大田さんは、金山寺味噌にはあまりなじみがなく、島らっきょやキュウリに添えて酒のアテにするくらいの感覚だった。それが「青唐辛子金山寺」を味わってみると、甘いだけではなく、ピリッと来る辛みが島豚の甘みに丁度マッチしてバランスのいい酒のアテになると判断した。「青唐辛子の辛みが刺激をし、これだけで酒のアテになる代物ですが、それでは芸がないので豚肉を漬けました。肉の甘さといい、バランスが取れて、そこにエゴマの葉が加わってさらに味のバランスが調えられます」。食べてみると、島豚の旨みに金山寺味噌の甘みが入り、そこにピリッと辛さもある。クセのあるエゴマの葉がいい仕事をしてアクセントになっているように思えた。


二品目も島豚を用いた料理で、こちらは「樽仕込み」を使って角煮にしている。「大田川」では、会席料理の中に角煮を挿入する事がよくあって顧客からもそれを要望する声が多いのだとか。今回は、豚バラ肉をブロックごとフライパンで焼き目をつけるくらい焼いてから、米糖が入った湯を沸騰させてそれを入れて豚の臭みを抜いて行った。黒糖・酒・みりん・にんにく・生姜・醤油(樽仕込み)と、あと企業秘密の合わせ調味料で約6時間煮て作っている。「単に煮っ放しではなく、煮ては火を止めての繰り返し。蒸し煮に近い状態まで仕上げて作っているんです」と説明していた。大田さんの「樽仕込み」評は、濃くて深みのある味だそう。元来、角煮にはたまりを入れるが、「樽仕込み」は濃いので使用しなくても充分。全体的な調味料の量も控えめにして作ってあるようだ。一見、煮た豚肉は色が黒いので味が濃いように見受けられるが、食べるとそうでもない。肉は柔らかくトロトロになっている。



三品目は珍しく鶏飯である。ご飯にほぐした鶏肉や錦糸玉子などの具材を載せて鶏ガラスープを掛けてお茶漬けのようにして食べる奄美群島の郷土料理で、スープの旨みと具材が合わさってさっぱりしているが、深い味わいが得られる。その起源は江戸期に遡るとされ、本土から訪れる薩摩藩の役人を島の人がもてなしたのが始まりらしい。郷土の名物だけに当然「大田川」でもよく出すようだ。作り方は、徳之島の地鶏を炒めて水を足し、弱火でコトコト煮る。基本は塩のみで調味し、鶏によって味の出方が異なるので提供する前にさらに調味するそう。いつもは塩だけで行う所を今回は「白搾り」を使っている。「届いた商品の中に『白搾り』があったので、これなら使用しても濃口醤油のような色はつかないだろうと塩代わりに用いました。この『白搾り』は、味がしっかりしている割にはまろやか。『白搾り』を使うと、鶏の臭みがうまく取れて旨みも出るので一石二鳥です」と大田さん。基本は白醤油なので醤油と同じような味付けになり、調味において邪魔になろうはずはない。ただ白醤油の塩分なので、塩は控えめにしたようだ。「大田川」での鶏飯は、鶏の胸肉、錦糸玉子、椎茸、葱、パパイヤの漬物、紅生姜、タンカンの皮。大田さんによると、紅生姜とタンカンの皮は使わない店もあるらしい。ちなみにタンカンは、漢字にすると桶柑とか、短柑と書き、中国・広東省原産のみかんで、1900年頃に日本に入って来て南西諸島で栽培された。ポンカンとネーブルオレンジの自然交配種・タンゴールの一種といわれている。パパイヤの漬物は奄美地方の郷土料理で、パパイヤの若い実を塩漬けした後に醤油や味噌で漬け込んで作る。奄美大島や徳之島では家庭で作って食卓に並ぶことが多く、鶏飯の薬味としても用いられる。


最後は「牡蠣と里芋の赤味噌グラタン」。これは徳之島の郷土料理ではなく、「赤だし」味噌があったのでそれを活用したくて大田さんが作った。予め店で作っていたベシャメルソースに「赤だし」を入れて味のベースを作っておく。牡蠣は一回焼いて水分を飛ばし、グラタン皿に里芋と一緒に入れてその上から「赤だし」を加えたベシャメルソースを掛け、とろけるチーズを載せてオーブンへ。30分ぐらい焼き目がつくぐらいまで火を入れれば完成する。「大田川」では、この手の料理を会席の中に組み入れる事もあるそうで「田舎(徳之島)の料理も同じで会席内を彩る事がある」と説明していた。使っている牡蠣は見るからに大ぶりで立派なもの。実はこの牡蠣は広島産のもので身が縮まないタイプ。市販では売っていないらしく、中央卸売市場の魚屋で求めたようだ。このグラタンを食べると、何となくコーヒーのような味がした。気になって大田さんに聞いてみると「ベシャメルと『赤だし』味噌が合わさって化学反応を起こし、そんな風味を醸した」らしい。「この『赤だし』は、濃くて香りが強い。三年以上寝かせているから色も濃く、糠の香りがします。本来なら渋みがありそうなのですが、そうでもなく、しっかりした味が特徴ですね」と評していた。この「赤だし」味噌を使って料理を作り、取材前日に来た和歌山出身の顧客に味見してもらったところ、「旨い!」とお墨付きをもらったと言っていた。

大田さんは、福島区に住んでいて家から近いのもあって毎日中央卸売市場へ仕入れに行くそう。店までは自転車で、その運転中に献立を考えるのが日課のようだ。今日出してくれた四品もそんな中で考えたものだろうか。かつて浦上師が「調味のセンスが似ている」と太鼓判を押した料理人は、常に遊び心を持って会席料理に接している。基本は純然たる会席料理であるものの、料理構成には自由さがあって洋のエッセンスが入ったり、徳之島の郷土料理が入ったりするのも大田流の表現方法だ。会った人に好印象を与える大田さんの朗らかさも加味して人を幸せにする要素を持っている。だから「大田川」は魅力のある日本料理店に映るのだ。HPを開くと、「年に一度は恋しくなる場所。特別な日こそ、訪れたい」とコピーが載っている。大田さんの信条は、とにかく効率を求めがちな昨今にあって、あえてじっくりと時間をかけて吟味したものを提供する事だそう。「食を通じて感動を届ける事」と話す大田さんの店には、常に料理人と顧客のいい関係が構築されているのが実感できる。
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<取材協力>
割烹 大田川
住所/大阪市北区堂島1-3-16堂島メリーセンタービルB1
TEL/06-6344-0141
HP/ 公式HPはこちら
営業時間/17:30~23:00(22:30LO)
休み/日祝日 ※但し土曜日は予約のみ対応
メニューor料金/
会席料理 10000~18000円(12000円・15000円が一番よく出る)
日替りのアラカルト(一品料理)もあり。
筆者紹介/曽我和弘
廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。





















































